マチェドニア
... モニターに当選したのでした(*^_^*) ふふふ^^ 何作ろう 簡単で フルーツそのものをいかした デザート♪ “マチェドニア” レシピ Doleフルーツボトル シロップ全部 Doleフルーツボトル トロピカルフルーツ2分の1ボトル ピンク ...

栗のマチェドニア
栗 のデザート: 栗 のマチェドニア 材料: いちご 1/2パック ブルーベリー 50g 栗 8個 オレンジ 1個 キウイ 1個 りんご 1個 白 ... マチェドニアはイタリア料理の一種。デザートでいろいろな果物が入っ ...

マチェドニア!!
... 保存に失敗しました!!(;_;)無事だったのはデザートの写真だけ☆こちらは、SHIORIちゃんのレシピ本「作ってあげたい彼ごはん2」に載っていた、「マチェドニア」!!…です♪タイト 続きをみる 『著作権保護のため、記事の一部のみ表示 ...

マチェドニア
大人のフルーツポンチです。 フルーツをワインシロップに漬けるだけ。 よーく冷えたら出来上がり *人気ブログランキング*

一日一膳 : 夏のマチェドニアとパンナコッタ
... 今回はイタリアの記憶の新鮮なうちに、 ハワイ向けに ひさびさにおうちマチェドニア作成。 そこの店のマチェドニアには、果物と柑橘の絞り汁に砂糖に加えてマラスキーノ酒(イタリア産のさくらんぼのお酒)を少し入れていました。 ...

皿の上にアイスクリームと果物のあるデザートは何といいますか
皿の上にアイスクリームと幾つかの果物があるデザートを何と言いますか。また海外旅行ではそういうデザートは何と言われていますか。
フルーツサラダ
フルーツサラダはマセドニア、マケドニアなどと呼ばれることが多いのは、何故?
イタリアについて教えてください!
3月3日から8日間、卒業旅行で、女4人でイタリアに行くんですが、初めてのヨーロッパですごく楽しみですが、不安もいっぱいです。ローマ・フィレンチェ・ミラノに行くんですけど、オススメの事があれば何でも教えて欲しいです。あと、お金のこと
ビザンティン辺境を行く(by bloom3476さん)
イタリア語で、フルーツポンチを何と呼ぶか、御存知だろうか、、
半島の南東、ちょうど長靴の踵にあたる古都 レッチェを訪れたのは、ユーゴスラビアという隣国がまだ存在した1980年頃だったと思う。
海沿いの食堂で、アドリア海の、海の幸を堪能したあと、このドルチェを頼んだ時、これが、
どうして「マチェドニア」と呼ばれるのか?
お店の給仕に訊ねてみた。その時、彼は一瞬考えてから、後ろを振り返り、アドリア海を指さしながら、こう云った。「 海の向こうに、こんなモザイクのようにいろんな事が混じって、仲良く暮らしている国があるんだよ。」それが私が
MACEDONIA に興味を持った始めだった。
バルカン半島一帯がビザンティン帝国の治世に組み込まれたのは遠く4世紀に始まる。 以来、この土地は,ブルガリア、イスラム、オスマン・トルコに支配され、領土は拡大、縮小を繰り返して来た。 20世紀初頭には、7つの隣国、6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字を持つ人々の地域となっていた。 第二次大戦後、ソ連の成功とその現実に脅威を喝破したチトーが、連邦制による結束を訴えて1946年 ユーゴスラビア連邦共和国は生まれた。背景には1500年間にも渡り、大国に蹂躙されてきた諸民族が、『それぞれの違いを認め合いながら共存して行くしか他に道はない』と覚悟したからだろう。これは、19世紀まではシリアやエルサレムにおいても、みられた、文明の十字路で生き伸びる智慧だった。
だからNATOがセルビアを空爆する映像を見て、同時代に、同年代の人間に起きている悲劇に 『何故、このような事が起きてしまったたのか? 』と思わずにはいられなかった。日本のマスメディアを通して語られたのは、「民族浄化」を叫ぶ政治家と「戦争広告」を仕掛けるマジソンavの広告屋の対立構図が多く、その何故をとけないもどかしさを感じていた。
1995年に公開された「 Before the rain」は昨日まで、マケドニア人とアルバニア人が共に暮らしていた村に、突然、悲劇が襲いかかる様を、描いた映画だった。当時、バルカンの各地で起こった『憎しみの連鎖』を見事に描き、前年のベネチア映画祭のグランプリに輝いていた。 映画の中で、朽ちた教会が、人間の愚行を昔から見てきた、村の古老のように、湖岸の丘に立っていた。 撮影は、文化と自然景観を併せ持つ、複合世界遺産として選ばれたマケドニアのオフリッド湖とプリレプで行われた。
その教会は「バルカンのエルサレム」たらんとして建てた聖カネヨ教会だった。オスマン・トルコの長き支配下にあっても、教会は、この地に踏みとどまり信仰の灯火を絶やさずに来た。オスマントルコの融和政策と、そこに共に住む人々が、お互いの宗教を尊重し、共存して行く意志を代々伝えて来たからだと云う。
いつか、あの教会を自分の眼でそれを知りたいと思った。
それから、もう13年の月日が経っていた。 民族紛争は黒海の向こう、コーカサス山脈の北へと飛び火し、宗教のみならず、ロシアとNATOの新秩序までを含んで混迷化していた。バルカンではマケドニアの隣国のコソボが独立を宣言して、セルビアが反発をするも、半島には暴発の兆候は見えなかった。
08年の夏、バルカンの辺境へと、旅立った。
9 Aug 2008 (sat) 快晴
成田 ‒ London - Wien
マケドニアへの空路の窓口はウィーンだ。こからマケドニアに入り、隣国にして後見役ブルガリアに行き、そこからイスタンブール、昔のコンスタティノープルに抜ける旅程を立てた。
それはビザンティン帝国の西端から帝都を目指す、西からのシルクロードを行く行程だ。
欧州までの長旅、フルフラットで寝て行くためにBAを選び、先ずロンドンへ飛んだ。 成田を13:30にBA008で飛び立ち、17:40今春に新設されたばかりのBA専用のターミナル5に到着 トランジットだが厳重なセキュリティを受けて、出発階に戻る。鳴り物入りのBAラウンジに入り、シャワーを浴びて、すぐさまゲートに向かい、BA706便でウィーンに22:15 到着した。 翌朝の乗換のため、空港近くのEuroHotel Airportに投宿。 洗濯をして、シャワーを浴びてTVを付けるとモスクワから、きな臭いニュースが飛び込んできた。 バルカンへの余波を懸念しながら、午前1時眠りについ
た。
Aug (sun) 快晴
Wien ‒ Skopje - Ohrid
昨夜はいろいろ断片的な夢を見た。旅に出ると、いつも人生を振り返るような夢ばかし見るのは何故だろう。 BAのラウンジで作ったサンドイッチで朝食を済ませて、8:00チェッアウト @59 EUR
シャトルバスにて、8:10空港着
マケドニア912便で 11:30出発 眼下は緑一つない荒涼とした山地を飛ぶ。わずか1時間のフライトでSkopje12:30 着(Web早期割引@89 EUR)
発着数の乏しい首都空港だけに、着陸後、10分位で入国した。(日本はEU並にヴィザ免除)到着棟には観光案内も両替所もないので、出発棟 に回ると、小さい窓口で人が紙幣を出していた。
キリル文字の国をこれから旅行するので、人々の動きに注意深くしてサインとしなければならない。120 EURだけ両替 ( 1 DER = 3円)
外に出ると、Taxiの呼び込み、市内まで25EUROとと吹っ掛けて値下げにも応じないので、出発棟に行く。家族を乗せて出ようとしていたTaxiに手招きをして、バスターミナル!と言って交渉する。 父親が家族の同乗だが良いか?と聞いているのOKという。料金を訊くと、500 DERという良心的な値段を云うので、スーツケースから、2週間前に山手線のポケモンラリーで貰ったピカチューのお面 2ケを後部座席に座る2人の娘達に上げると、姉は不安そうだったが、妹は母親に見せびらかした。父親は英語を話した。自分達はアルバニア人で、この国の1/3を占めている事、地震で傷ついた市内のデコボコ道路も来年には舗装されるだろ、、と話している間に、車はバスターミナルに着いた。 別れる時に、これを奥さんに、と松本の組紐付き鈴を父親に託すと、スカーフの妻は始めて微笑んだ。空港を出て、わずかの間に、見も知らなかったアルバニア人と普通の話が出来て良かった。アルバニアという国に少しだけ近づいたと思った。
オフリッド湖: WCNHは文化性と自然景観の双方を持つ世界複合遺産として1979年に選ばれている。(※このWCNHに選ばれたのは世界で20に満たない)スコピエからは1日10本ものバスが、運行していた。窓口で、Ohrid行き14:45のバス券を買う。ついでに2日後のソフィア行きの国際バスもパスポートを提示して発券した。 スーツケースを事務所に預け、冷たい水を買って魔法瓶に移し、軽食を買った。館内の大時計を見ると14:30になっている。 そこで時差がWienよりも1時間早める事に気がついた。 慌ててゲートに向って、満員のバスに滑り込んだ。
途中1回のトイレ休憩をはさみ、3時間でOhrid湖地域に到着、バスターミナルが判らないまま旧市街を超えて、湖東岸の新市街まで来てしまった。慌ててバスを降り、白タクを捕まえて、聖クリメント教会に向かう。この教会は翌月曜には閉まってしまうので、身振りで運転手に急がせた。
つづら折りの坂道を登って、教会のある丘に着いた。200 DERを払い、小さな聖堂に入る。内部は外観からは想像できない程、淡麗な「聖母の生涯」のフレスコ画が描かれていた。オフリッドの寺院群の中では、保存状態は良い方らしいが、描写は第一級とは思えない。
外に出ると、男が露台で名物の淡水真珠を売っていた。
教会の裏手から、石段の坂を下って湖に降りた。道沿いには瀟洒なヴィラが隙間なく建てられていて、イタリアのコモ湖のようだ。湖岸の路地には、伝統工芸である木彫り彫刻の画廊が立ち並び、 聖人を彫ったイコンも店頭に飾られていた。 湖岸に面した Hotel Riviera に19:15 投宿(Web予約で、33 EUR)
シャワー&洗濯をしてから夕食に出かけた。旧市街で目星をつけていたANTIKOに行く。広場は夜の散歩を楽しむ人達でいっぱいだが、夕食にはまだ早いらしく、給仕が暇そうにポーカーをしていた。食前酒にRAKIという強い蒸留酒を頼む。(トルコのよりもアニスが強い)食事は鱒のスープ、マケドニア風ハンバーグ、チーズのかかったサラダを取った。どれも、コクがあって美味しい。 食後、お目当てのフルーツポンチを頼んだ。キリル文字のメニューにはマチェドニアの名称はなくフルーツ寄せとなっていた。
翌朝、早起きして、昨日、下がってきた道を上り
城塞のある丘に行った。 夏の強い日差しに青い湖面が輝き、手前には、映画に出てきた、聖ヨハネ・カネヨ教会が佇んでいた。
夏の真っ青な空の下、海のような湖が広がっていた。 この向こうにはアルバニアがある。この小さな村で、年端もない子供までもが、銃を持って戦ったのは、ほんの20年前の出来事だ。
夏草や兵どもが夢の跡
多くの血を流して、この地に平和は訪れていた。草むらに座って、静けさに包まれた湖を眺めながら、昨日、会った運転手一家の事を思い出した。彼らとマケドニア人の間に、これからも、ずっと平和な時があるようにと願った。
夏だけ運行される船に乗って、対岸の国境にある聖ナウム寺院に行った。船は30Kmを90分で南下して、透明度の良い入り江に接岸した。 乗客の大半は、このビーチで水遊びをするために来ていて、昼食とゴザを持って、下船した。
私は、小高い丘を登って、寺院に辿り着いた。
小さな寺院に入ると、クーポラの小窓から差し込む光線が、内陣に描かれたフレスコ画を劇的に照らし出している。保存状態は聖クリメントよりも上で、画家の技量も勝るように思えた。
売店で赤と紺の美しい組紐の十字架を買った。
寺院に隣接するホテルのテラスに立つとすぐ向こうにアルバニアの村々が眺められた。 数年前まで鎖国をしていた国を真近に見て、アチラに行ってみたくなった。 野原を300m位歩いて国境に出た。菊のご紋のパスポートを見せながら、出国〜入国出来るか? と聞くと、柔和な顔の女性係官は、ポンとスタンプを押してくれた。 拍子抜けする位、簡単にマケドニアを出国してしまった。
そこから誰もいない車道を湖沿いに10分歩いたが、カーブする道に目指すアルバニアのチェック・ポイントがいっこうに見えない。夏の容赦ない光に汗が噴き出してきて、帰りのバスの事が心配になってきた。
また来ようと、決めた。 すると、1台のタクシーがアルバニアから来て、私を追い越して行った。
乗っていたのは、キプロスで働く英国人の夫婦で、アルバニアを2週間回ってから、マケドニア入りをしたばかりだった。 国境事務所から町に戻るバスの中で、彼らに、あの国の様子を訊いた。『交通インフラの劣悪さはあるものの、それを差し引いて余りある程、純朴な人々と美しい自然がアルバニアには残されていて、まるでマルコポーロにでもなったようだったよ』語った。 私も、マルコポーロの眼を持って、早い内に訪れようと思った。
ホテルから荷物を取り、町外れのバス・ターミナルに行った。1時間後に出発するバスを訊くと、満席との事。深夜に見知らぬ街に着きたくなかったのでギリギリまで待って補助席を貰ってスコピエに戻った。20:30 スコピエ着 スーツケースをゴロゴロ引きづりながら、地球の歩き方の小さな地図をコンパスと見比べ、真っ暗な道をユースホステルまで歩いた。野犬が吠えている真っ暗な道を10分歩き、ホテルの灯りを見つけた時はほっとした。国連関係者の需要しかないスコピエでは、ここは例外的に安い宿で、館内は全部、個室で日本のYHカードで割引となる。空腹だったが、シャワーを浴びて就寝。 Web予約@35 US$
5:00に起きて、絵葉書を息子や友人に7枚書いた。朝食を済ませてから、中央郵便局まで歩いた。 大きな郵便局なのに、開いている窓口は1か所だけ。そこに大勢の人が並んでいた。その時、出した葉書は16日後に東京に届いた。ヴァルダル川を渡り、聖スパス教会に行く。
マザーテレサの銅像が人気のない場所にあった深い皺の奥に、不屈の意志が感じられる銅像だ。 3人もの人に道を尋ねて辿り着いたスパス寺院、あまりパットしない外観だったが、内部に入ると、見事な内陣が現れた。 オスマントルコの治世下に建てられた教会の常だ。
教会を出て、アルバニア人の住民の多いオールド・バザールに向かった。 だんだん活気が出てきて金銀を扱う店に混じって、肉を焼くいい匂いがしてきた。 働く人々で賑わう店を選んで入ると、立派な髭を蓄えた父親とスカーフの少女が座るテーブルに同席した。父親に指さしでパスタの入ったスープと、キョフテを頼んでくれた。
美味しいお昼を食べて、旅の疲れも飛んだのでタクシーで郊外のヴォドノ山中にあるパンテレイモン寺院に向かった。 そこには次の世界遺産候補としてあがっている「聖母の嘆き」のフレスコ画があった。聖母の悲しみの熾烈な表現に驚く。 ルネッサンスになって、個人の魂が解放された、、いう西欧の定説が陳腐に思える程ドラマティクな描写だ。
運転手に急かされて、車に戻る。 そのままバスターミナルに急いだ。
ベンツの大型バスだが、乗客は全部で6名だけだった。 高速道路が通じていないので、一般道路を5時間かけて、ソフィアの中央駅に20:00着
駅にスーツケースを預けてから、中央駅の端にある外国人用の代理店:RIRAにて翌日のイスタンブール
て行き夜行寝台の2等キップを発券する。この時、スムーズに発券できたが、午前中には満席だったらしい。
1泊分の荷物を入れたリュックを背負って、から徒歩10分のHotel Maximに投宿。
英語を話す客に久し振りで出会う。Webで予約 @50 EUR
コンシェルジェの勧めで、近くにあった古い豪邸を改築した伝統料理の店に行く。キョーポル(トマト、ナスのミンチを冷やした夏の前菜)カヴァルマ(肉、野菜炒め)を食す。その土地に行くと、 知らない料理をトライする、失敗も多いがそれでいいのだ。 宿に戻り、22時就寝。
13 Aug (wed)
快晴
Sofia ‒ Boyana – Istanbul
車を呼んでもらい、世界遺産のボヤナ教会: WCHに向かう。市内からヴィトシャ山に向かい25分程で着いた。聖堂は驚くほど小さく、1回の入場者を10名以内に限定しているのはミラノ
「最後の晩餐」以上の狭き門だ。中に入り、柔らかなライトに照らし出されたフレスコ画を見て、心底驚いた。描かれた聖人達のなんと優美な事か! フラ・アンジェリコのような筆致で、内陣一杯に、「最後の晩餐」が描かれていた。日本に紹介される事の少ない寺だが、この小さなフレスコ画が1979年に世界遺産に認定されたのも頷ける。画家の名前も記されない、この聖堂に、 システィーナ礼拝堂にも勝る感銘を私は受けた。
日本に紹介される事の少ない寺だが、この小さなフレスコ画が1979年に世界遺産に認定されたのも頷ける。 画家の名前も記されない、この聖堂にシスティーナ礼拝堂にも勝る感銘を私は受けた。
堂内で、リヨンから車で来ていた久世夫妻と会い、市内まで同乗させて貰った。 久世夫妻は会社から2週間の休みを貰い、バルカン諸国を廻って、ソフィアに着いたのだという。 B4サイズの行程表を見せて貰うと、行程、宿泊、レストラン、経費等を綿密にシュミレーションされていた。
私の行程表を見せると、同じような作りに、世の中には同じような輩がいるものだ、とお互い笑った。
ただ私の表には訪問国の日常会話単語が附されていたので、人見知りの奥さんが感心していた。
アレキサンダー・ネフスキー寺院まで一緒に歩き、そこで別れて、私は地下にあるイコン美術館に入った。イコンは大別してギリシア風とロシア風に分かれるが、ここにあるイコンは人物の肌の色がやや浅黒いスラブ風だ。内部は撮影禁止なので、紹介出来ないが、売店で、オリジナルを現代の画家が模写した作品を売っていたので、1点だけ気に入った作品を450レフ:約231EUROで購入した。
外に出ると、道沿いに露店が並び、骨董や現代のイコンを売っている。 その内の1店で、筆致が珍しいイコンを見つけた。「バベットの晩餐会」の本の挿画をされた高橋常政画伯の筆致に似ていて面白い。 値段を訊くと、70レフというので、粘って、35レフにて購入した。
共産党本部のあった中心街まで戻り、路地裏の店で昼食を取った。 タトールという冷たいヨーグルト・スープで一息をついた。 ミートローフも美味しかった。 それからシェラトンに行き、ブテックで薔薇の香水と石鹸を買った。始めてソフィアに来た時は、ここに泊まったが、随分と贅沢をしたものだ。
店主との話で、ヒルトンホテルにある系列店で、ロシアイコン(ブルガリアイコンではないので、持ち出しに問題はないらしい) が多いので、覗いてみてはと勧められる。
市電に乗って、町外れのヒルトンに行った。 店主が待ち構えていて、カモにネギと、倉庫にあったイコンが全て勢揃いしていた。
なかなかいい物もあったが、是非にという程でもなく、帰ろうとしたが、ここまで来たので、その内の1点の値を訊いた。銀の覆いに囲われた25x15cmの聖母子のイコンだ。店主が2890 EURと書き、わざわざ、お越し頂いたので特別に10%のディスカウントをすると述べた。1982年に訪れた頃は、この1/20位の値段で購入できた品だった。
市電でイスラム人街まで行き、下車
タンブールのシュレイマニエ・ジャーミィを設計したミマール・シナンのモスクがそこにあった。エディルネにある最高傑作の1/10にも満たな規模だが、シナンのセンスが一目で分かる建築だ。その裏には生鮮食品を集めた女達のバザールがあり、薔薇の石鹸がシェラトンの半額で売っていた。
今夜の夜食用にと、ミルフィーユのようなチーズパンを買った。 その店で食べたプリンの美味しいことにビックリした。ホテルに戻り、リュックを取って、駅に行った。すでに、駅のベンチにはイスタンブール行きに乗るバックパッカー達が溢れていた。売店で水を買い、余ったレフ紙幣でリンゴを買った。
前日RILAのおばさんが「この電車はウィーンから走ってくるから、いつも遅れるからね」と予言した通り、イスタンブール行きのバルカン・エクスプレス号は90分遅れて、8:55PM 真っ暗なホームに滑り込んできた。 自分の乗る席がどこなのか? 知らぬまま、列車に乗り込んだ。 車掌にコンパートメントを示され、スーツケースを押し込んだ。 RIRAのおばさんに懇願した、甲斐あって用意されたのは三段ベッドの下段であった。
イギリス人のカップルと同室になった。寝られない夜にならないか?と、不安を感じる間もなく、
ゴトンゴトンという振動で寝入ってしまった、、、
その熟睡を、まず2:00頃、ブルガリア側で車掌にパスポート・チェックで起こされた。 しかし、パスポートを渡すだけで、すぐに済み、また寝ると、3:00にトルコ側のKapikule駅に到着
昼の猛暑がどこに行ったのか、フリースがいる程、寒気の駅舎に降ろされて、入国審査に並ぶ。 まるで、抑留された兵隊のようだ。
そこに並ぶ旅客の平均年齢は20代前半で、フランスの学生が圧倒的に多い。 その中に、ポツポツと旅の猛者の風貌の中年パッカーが並んでいる。 寝ぼけ眼でしょんぼり立っている私も、そのように見えているたらなあ、と妄想をした。旅慣れていると思われたイギリス人カップルも 車掌に云われて、慌てて入国審査に飛んで行った。
列車が動いたのは、4:50 ゴトン、ゴトンというリズムは私に子守唄らしく、また直ぐに寝付き車窓からの光で目覚めた時はイスタンブールに着く1時間前だった。 右側にマルマラ海が見えてきて、列車は90分の遅れを取り戻し、定刻の10:00にイスタンブールのシルケジ駅に到着した。
14 Aug (thu)
快晴
Istanbul
昨年の夏に下調べしてあったスルタン・アフメット地区に5分程行ったイルカイ・ホテルに泊まった。値段の割にエアコンもバスタブもちゃんとしていた。 久しぶりに浴槽で体をおもいきり、伸ばした。毎日、移動ばかりで、疲れをひきづるながらの5日間だったが、もう終わりかと思うと、3週間の夏休みで旅をしていた英国人夫婦を羨ましく思った。
大好きなイスタンブール、やる事はいっぱいある、さあ出かけよう!
先ず、Vakkoのアウトレットに行ってから、隣のミグロスに入り、日本、未発売の緑のEFE
RAKIを6本買い、ホテルに持ち帰った。それから、 グランバザールに出かけ、妻にパシュミナのストールを買い、イコンの店を冷やかして外に出ると、もう陽が傾いていたので、慌てて。トラムに乗って、エミノニュに向かった。 夕陽の見頃まで、もう少しなので、エジプシャン・バザールに行き、キャビアとロクルムとオリーブの石鹸を買った。19:20のフェリーでウシュクダルに向かう。後部デッキに座り、黄昏の空に浮かび上がるイェニ・ジャーミィ: WCHのシルエットに感嘆した。
ガラタ塔に電飾が灯り、出航を祝っている。 僅か1.3リラで乗れる最高のクルーズだ。 オレンジ色のスカイラインがいつしか紫に染まり、アジア側の賑やかさが近付いてきた。 埠頭に 降りて、家路に急ぐ人々に紛れながら、馴染みの ロカンタに向かう途中、ショーウィンドゥで華奢な磁気の花を見つけた。意匠が面白かったので、出産地を訊くと、インドだという。 タージマハールを作り上げた美意識が今に伝える工芸品の素晴らしさは、日本にあまり伝わらないが、西側のトルコには、こんな品が輸出されているのを知る。 90リラを75リラで購入した。
Kanaat Lokantasi
昨年、グランバザールの骨董屋から教えて貰ったのだが、この街にいる間は毎日、1食はここで食べる位、気に行っている。 馴染みの給仕と挨拶を交わして、ミナレットが見える、お気に入りのテーブルに付いた。 いつものマカロニ・グラタンそれからキョフテとサラダ、最後はライス・プディングを取った。アジア側の下町の食堂には市井の人々の笑顔が溢れていた。
21:20のフェリーでエミノニュ側に戻る。 突然、花火が上がり、モスクの上に光の大輪を咲かせた。戦火でなく,平和な花火が見られる時代 それは先人の平和への努力によって招来した 贈り物である事を忘れてはいけないと思った。
The World heritage Traveler
193/ 851
アドリア海・沿岸の美しき国々へ(by bloom3476さん)
【行程】
7/21(日) JL407 NRT13:00—18:00x.FRA
JP125 FRA20:20—21:35 LJU
7/23(火) リュブリアナ 陸路 ザグレブOU ZAG SPU
7/25(木) スプリット 陸路 ドブロブニク
7/27(土) ドブロブニク 航路 バーリ
7/28(日) バーリ アルベロベッロ レッチェ
7/29(月) レッチェ ブリンディシ
VA834
BDS16:00—17:25 LIN
7/30(火)
AZ4018 MXP14:25—09:55+1 成田
【費用】
? (SYD—NRT)–FRA//MXP—NRT(--SYD) @4500AU$ JL/Cclass AU発EU周遊運賃
? FRA—LJU(--FRA)
@JPN37400
LH/APEX
? ZAG—SPU @US35 OUシニア事前割引
? ドブロブニク--バーリ JADROLINIJA三等運賃@330kn
? BDS—LIN @EUR90
VA事前割引
【宿泊費】
Grand Hotel Toplice Bled @EUR241.6
Hotel Park Split @EUR120
Villa DUBROVNIK @EUR250
Adria Hotel Bari @EUR75
Patria Palace Hotel Lecce @EUR260
Antica Locanda Leonardo @EUR180
遠くから教会の鐘の音が聞こえる。
湖上を這うようにして伝わってくる、その優しい音色で私は目覚めた。
「ここは何処だろう?」
遠くに雪を被ったユリアナ・アルプスの山並み、そこから続く広大な森、そして澄んだ湖水に浮かぶカテドラルの小島。地球を半周して来て、最初の宿で迎える、こんな驚きから旅の物語は始まっていく。
私は「何かを探しに」いつも一人で旅をするが、時には、家族を連れて、「何かを忘れる旅」へと出かけてみるのもいい。 そんな目的で毎年訪れる旅先のひとつがイタリアなのだが、そのイタリア人達をして、『神よ、海の向こう側ばかりに、なぜあのように美しい自然を与えたのですか?』と羨んだ国々がある。 アドリア海の東側にあるスロヴェニアとクロアチアの国々だ。
これらの国々がユーゴスラビア連邦の頚木から解体をし始めた頃、私は田村町にあったユーゴスラビア航空に半年ばかりも通って、この美しい土地を隈なく巡る空と海の旅程を組んだ事があった。しかし出発間際になって。父が病に倒れ、その計画は白紙となった。
それから程なくして、ユーゴ紛争が始まり、1年を経て父も他界した。 チトーのカリスマの下、「ユーゴスラビア」に続いた融和のモザイクは民族主義の高揚から、時を追うごとに剥れて行った。独立の正義で始まった戦いは虐殺の連鎖に変容し、「民族浄化」という戦争広告のメディア戦まで巻き込んで行った。1995年NATOの空爆という圏外圧力によって強制終了させられた後、焼け爛れた国土には死者20万人、難民200万人もの犠牲者の重たい現実が残されていた。
もう西欧では望めない程の無垢な自然環境、そして多くの世界文化遺産を継承したこの国が、魅力的なエコツーリズムの地として輝きを取り戻すのには、そう時間はかからなかった。
2002年夏 私はアドリア海の宝石といわれる地で「何かを忘れる」だけでなく、「何があったか」をも知りたくて、計画から10年目にして旧ユーゴの国々へと旅立った。
First Classでフランクフルトまで
東京—フランクフルト-リュブリアナ 21 July
梅雨明けが宣言され夏本番の日曜日、成田を13:00に発ち、フランクフルトでJP/LHに乗り換えて、スロヴェニアの首都・リュブリアナ22:30 に到着した。16:30分の長旅だったが、JLがビジネスクラスからファーストクラスにアップグレードしてくれたので、フルフラットの座席と何時でも好きな時間に12種類ものメニューから食事が取れる快適なサービスで家族の疲れも軽減され大陸間移動が出来た。
ブレッド湖
リュブリアナ空港に着くと冷たい雨が降っていた。
この空港は首都リュブリアナと、目指すブレッド湖の中間にある。私達はホテルの差向えの車に乗り、真っ暗な森の道を25分程走ってから、湖畔のホテルに着いた。蔦の絡まる古風な玄関を入ると、湖に面した奥のラウンジからジャズの演奏が流れてきた。雨で身体が少し冷えていたが緩やかなバンドの音色で温かくなってくる。なんかとっても、いいホテルだなあ、、と嬉しくなった。この土地では格上のVilla Bled(チトーの別荘だった)にしようか、どうか?と悩んだが、英雄専用の保養を旨とした迎賓館よりも、長期滞在客への寛いだサービスに溢れた、このホテルの方が心地よい、、と作家の島田雅彦が書いていたのを覚えていた。 奮発して英国・チャールズ皇太子の接待にも使われた110号室を予約していた。二間続きの部屋に入ると夏なのにヒーターが入っていた。鎧戸を開け、広いバルコニーに出ると、ライトアップされて幻想的なブレッド城が目の前に現れて、長旅の疲れも吹き飛ばしてくれた。
爽やかな冷気が時差ボケさえも、吹き飛ばしてくれる。バルコニーに出ると、澄み切った湖面に鱒が跳ねるのが見えた。正面がブレッド城、左側遠く朝靄の絨毯からカテドラルの尖塔だけが浮かんでいる。 湖面の階に降りて、戸外のテラスで朝食を取った。 ブッフェには溢れんばかりの果物が揃っている。ここの朝食はとても美味しそうだ。朝の始まりがこんなにも優雅なので、周りの宿泊客もみんなリラックスした笑顔で挨拶を交わしている。スロヴェニア語でお早う!は「ドブロ・ユートロ」ロシア語に近い。
ユリアナ・アルプス
ロビーで見つけた日帰りツアーに早速申し込んで「Juriana Alps Tour 」に出かけた。この地名は昔
ジュリアス・シーザーがここまで遠征をして、軍を率いて、この険しい山稜を踏破した事から名付けられたという。 塩野七生ではないが、ローマ帝国時代を知ると、人間の意志という崇高さに現代人は己の脆弱さを覚えるばかりだ。
スロヴェニアは国土の70%が森林地帯である。
(それで、こんなに空気がうまいのかと納得!)
いい森はいい水を生む。 川の流れはエメラルド色をして、地平を潤していた。高山植物の咲き乱れる峠を越えて、イタリアに越境した。(パスポート必携のバスツアーだ)J・デビィビエの「我が青春のマリアンヌ」に出てくるような幻想的な湖に眼を奪われる。 帰路、第一次大戦で捕虜になり、虐殺された200人のロシア兵を弔うために建てられたロシア寺院に寄った。プーチンも先月訪れたばかりの、質素な寺院を見ながら、国を遠く離れて亡くなった若い兵士達の無念を想像した。夕刻、帰宿。まだ陽の高い中、欧米の旅人達が寛いで日光浴をしていた。
ブレッド湖 リュブリアナ ザグレブ 23 July
一昨日の運転手が良心的な人だったので、この日も半日チャーターした。彼Pogacarさんは奥さんがペンションを経営し、本人はハイヤー業をしているマックス・フォン・シドーに似た紳士だ。車でブレッド城まで登り、抜けるような青空のもと、遠くアルプスから、アドリア海までの地平線を見渡した。それから1時間でリュブリアナに到着。小さい首都を一巡してから骨董街に案内してもらう。ロンリープラネットに載っていた店で18世紀のビザンチン・イコンを入手した。掘り出し物のマイセンのセットなどもあり、英語の通じない主人との間でPogacarさんは大活躍だった。
空港に着くと思わぬアクシデントが待っていた。
リュブリアナ〜スプリットの直行便が運行中止になっていた。アドリアナ航空の代替案は、なんとミニバスでクロアチアのザグレブまで無料送迎をするので、そこから国内線でスプリットまで行くとの申し出だった。1時間後に集合したのは60代の中欧風な女性と我々だけ。流石に3人では運行中止となるはずだ。ドライバーは20代の女性だった。 この女性の運転がルマンに出てもいいくらい素晴しく、スロヴェニアの肥沃な田園地帯を抜けてをわずか2時間半あまりで、ザグレブ空港に到着した。
クロアチア航空でチェック・イン 料金はリュブリアナの職員がお詫びにシニアの事前割引の運賃(US$35位)を適用してくれた。リゾートに向う華やいだ気持ちの人達とともに満員の飛行機に乗った。機内から見えた大きな夕陽が落ちて、真暗なスプリット空港に着いた。迷っている私達を見て、リュブリアナからの女性が、スプリット行きのバスまで案内してくれた。ザグレブまでの車中、はにかみながらキャンディを受け取ってくれたシャイな女性だったが、目的地に着けた安堵感からか、彼女の方から話しかけてきた。「私は10年ぶりでスプリットを訪れるのです。」そこから語ってくれた半生は驚くべきものだった。 彼女はスロヴェニアで生まれ、クロアチアのスプリットに嫁いだ。 そしてあの動乱の時代を迎えて、彼女の家族は、戦乱を避けて、この地を離れる決心をした。現在、彼女はロサンジェルスに夫と住み、息子と娘はロンドンで職を得て、またそのほかの親戚はカナダに住んでいると語ってくれた。 スプリットに親戚は残っていないのかと聞くと、一人として、もういないと、事も無げに言った。 彼女はこれからスプリットの先にあるダルマチア諸島にわたり、透き通った海で泳ぐのが楽しみで、戻ってきたと嬉しそうに語った。ボストンバッグ一つの身軽ないでたちの女性がはるかロサンジェルスから旅してきた理由のシンプルさに、センチメンタル・ジャーニーになど堕さずに生を愉しんで行く気丈な精神を感じた。
空港を発ったバスはアドリア海沿いを南下し30分ばかりしてスプリットの町に着いた。真っ暗な道を駆け抜けてきて突然、華やかなリゾート地の盛り場の停車場に着いた。TaxiでPARK HOTELに行き、夜10時チェック・イン。遅くなり、疲れていたので、機内でくれたクッキーで空腹をしのぎ就寝した。
スプリット 24 July
翌朝 厚い鎧戸を開けると、眩しいばかりの陽光とビーチで賑わう声が飛び込んできた。どこかイタリアの昔の海水浴風景のようで、フェリーニの映画を見ているようだ。 さあ!朝ゴハンを食べよう!と一階におりた。このホテルはロケーションも旧市街まで近く、目の前にビーチがあり、Fodor’sで薦めていたわけだが、特筆すべきは、その朝飯の大判振舞いであった。シャンパン・ブランチ発祥として有名なLAのベル・エアーホテルを凌駕する程だ。生ハムは大きな肉塊がデンッと置かれていて、好きなだけ切って取れたが、お昼のSeaFoodが待っているので2皿でセーブした。
南国の容赦ない太陽から逃げるようにスプリットの旧市街の迷路のような狭い路を歩いた。
そこかしこにカフェがあり、物憂げな太陽族たちが、昼下がりの会話を愉しんでいた。彼等は夜会に備え、今は休んでいるのか。この時期、スプリットでは夏の音楽祭が1ヶ月に渡って開かれ、世界遺産の鐘楼前でも、今夜の演しものであるVerdiのオペラ「アッチラ」の架設舞台が組まれていた。
老舗のSea FoodレストランKonobaで昼食を取った。前菜に生カキ、グリーンサラダ、主菜に伊勢海老のリゾットとイカ墨のリゾットそれからドルチェにクリーム・カラメル。 ここはイタリアの地方の質実な老舗と変わらない味だ。それで値段が半分。
西欧から多くのの避暑客が来るのも頷けた。
路線バスの旅 アドリア海・篇
スプリット ドブロブニク 25 July
スプリットを出て、右手にアドリア海、ダルマチア群島をみながら南下するこのバス旅は、絶景路線バス世界コンテストなどがあれば、間違いなくBest10入りするであろう。ただし途中休憩もなくボスニアヘルゼゴビナ領も越境して5時間半も突っ走る長旅だ。大きな荷物は外部トランクに詰めるので、車内に飲物とお弁当をお忘れなく!
B級トラベラーの私だが「地球の宝石」のような地に旅する時は、一期一会の出会いを大切にしたい。 アドリア海の真珠と称えられる、この風光明媚な土地で、何処に泊まるか? Webを検索したらエリザベス・テイラーがよくバカンスを過ごしたホテルというのを発見した。なんか大時代的でいいではないか。 私はリチャード・バートンになった気持ちで、問い合わせをしたら、残念ながら今シーズンは改築休業中なのでと、隣の敷地のホテルを推薦してくれた。Fodor’sで調べても、お値打ちだったので、
ここで一番の「眺めのいい部屋」を予約した。
バスを降り、タクシーで紛争前に展望台があった山頂に登った。内戦で破壊されたケーブルカーの施設は未だ修復されずに10年前の傷跡を残していた。瓦礫になった天文測候所を抜けて頂上に辿り着いた。大音量でロックをかけていた若い運転手もいつのまにか音楽を消していた。彼に案内されてフェンスもない崖から身を乗り出して、眼下を見た。アッと息を呑む景色だった。原田泰治が書いた絵「ドブロブニクの眺め」もここから描いたのだろう、、と思った。
それから山をジグザグにおりてから海岸縁のビラに着いた。門の呼鈴を鳴らすとポーターがやって来た。緑生い茂る庭を海側に下がってロビーに到着。
ロクルム島の見える棟ではなくて、旧市街の見える
ANEXの方に通される。 真っ白な部屋に入ると、窓を開けてヴェランダに出た。そこには真青な海の向うに「アドリア海の真珠」が輝いていた。
骨董探訪
翌日 旧市街に20分ばかりかけて歩いて行った。目抜き通りのプラツァ通りに出る。 ただの石の通りがなんで面白いのか?と来る前は勘繰っていたが、鏡のように磨きこまれた大理石のプロムナードを歩いてみると、なんか気分がふわふわしてくるから、不思議だ。同じ海洋都市国家のベネチアのサンマルコ広場と同様に、栄華な歴史の住人たちと同じ舞台を踏んでいる高揚感からだろうか?長い通りは脇にたくさんの小路が分かれ、その奥に隠れるように洒落たレストランや骨董店が潜んでいたりするのもベネチアと似ている。
それならば、、、と嗅覚がわき、骨董店を探すと、探していたモノに出会えた。 カソリック圏とビザンチン圏の美意識が交錯し合うクロアチアにはとびきり美しいイコンが生まれていた。 その店に入って、女主人が出してくれた一番の品に私は眼を奪われた。 全体が琥珀色に退色しているが、時の移ろいの中にも、描かれた聖母像の気品さは、はっきりと感じられ、西欧のマーケットではもう出会えない17世紀の一級品だった。これまで贋作に随分と授業料を払ってきていたので多少は目利きが出来るつもりだが、画板の反り具合、画材の変容から、少なくとも19世紀以前の物であることだけは推察される。様々な品々に混ぜて、何気なく本命の値段を訊くと、 予想していた値段だった。これが予想の倍だったら諦めたが、美術館入りに相応しい一級品との一期一会を感じて、言い値を、少し値切ってから手に入れた。(値段はさすがに家族にさえも明かせなかった。)その他にも18世紀の精緻な細工のカメオ、アインガルテンの稀少なグランドセット、ティントレット風のタピストリーなどの逸品が並んでいて、この街の住人達が東欧にあっても侯爵夫人のような気位で富を継承してきた歴史を裏付けるようだった。
毎年7月中旬から1ヶ月に渡って、開催される欧州でも指折りの音楽祭で、教会や市庁舎のホールなどで、毎日のごとく室内楽からオペラまでの興味あふれるコンサートが催される。著名演奏家達も、この街の招待には、手弁当で押しかけるらしく、今回もブレンデルやNゾンネバーグなどの公演もあった。夜9時ごろまで陽があるので、10時からの、声楽コンサートに出かけてみた。プラツァ通りは昼間と変わらぬ賑わいで、大人だけでなく子供まで宵っぱりなのが判る。カテドラルでの音楽会は、音の共鳴が素晴らしく、熱をおびた演奏を睡魔と格闘しながら最後まで聴いた。外に出ると、もう1時を超えていたのに、夏の夜を愛しむ人でいっぱいであった。
ドブロブニク バーリ.27 July
今回の旅程での離れ業がこの航海だ。アドリア東岸を南下して来て、海を渡って対岸のイタリア・バーリに入り、そこから陸の孤島と称される辺鄙なプーリア地方を周るというプランだ。 Jadrolinija海運のフェリーは4階建で、接岸する1階部分がバスまで入る駐車場階、2〜4階が個室、自由席の船室で、屋上のデッキ階では潮風に吹かれながら、空から海までの青のグラデュエーションに包まれたアドリア海のパノラマを楽しめるのでお薦めだ。
船内の展望ダイニングでは世界で2番目に美味しくないパスタが供されたが、窓から見えた夕陽の素晴らしさで帳消しだった。 夜10時半にバーリに到着。岸壁からタクシー乗り場まで荷物を持って1km以上歩くのには参った。タクシーがもういないので、営業終了のタクシーに拝み倒して、なんとか、この夜の内に予約した宿まで着く事が出来た。
アルベロベッロ
バーリ アルベロベッロ レッチェ .28 July
前夜、泊まった宿は典型的な駅前ホテルでスーツケースをごろごろ引いてバーリ駅に行った。ここからSud-Estという私鉄でアルベロベッロに向う、、、積りだった。しかし、、、「エッ!日曜日は運休?」なんだそうである。それで国鉄でFasanoまで行き、そこからタクシーでアルベロベッロまで行った。
駅を出ると平原の中、ポツポツとあの不思議な屋根の家が視界をよぎっていく。オリーブ畑を疾走すること20分で世界遺産の街に到着した。そして、、不思議な景色に気持ちは不思議の国になるはずであった。しかし!なんだ、ここは、、まるで江ノ島じゃないか。街中のトゥルリの家々はお土産屋さんばかり、観光客への客曳きでガヤガヤしている。なんか一番イタリアらしくない所に来ちゃったと思った。 ここも泊まって観光客の来ない早朝や夕暮れの静寂の中で一人散歩するといいのかも知れない、、かも。
レッチェ -バロックのフィレンツェ-
レッチェ イタリア半島・その長靴の踵にあるこの地は辺境ゆえにスペイン、ゲルマン等、幾多の国家の属領となって来た。歴代の支配者たちは「前よりも、凄い建築をこの街に造らねば!」と気張った。「半島の隅っこに、どうしてこんな凄いものが?」とビックリさせられるのも、そんな理由に因るらしい。今は北部イタリア・ヴィチェンツアにあるパラディオの建築と並ぶイタリア・後期バロックの傑作建築郡に選ばれて、ユネスコの世界遺産となった。アルベロベッロまでは行っても、そこから足を伸ばして、この街まで南下する人は少ないのか。それだけに、この街には観光客に荒らされていない地元の人の穏やかな楽しみが根付いている。
Lecce 28 July
そんな素敵な街だから、気張って一番豪華なホテル、それも一番眺めのいい部屋に泊まった。
19世紀の貴族の邸宅がリノベートされた、このホテルはイタリアの歴史的ホテルリストの栄誉に浴している。内装は典雅、そして浴室にはふんだんに大理石を使っている。中でも一番の贅沢は、世界遺産のサンタ・クローチェ寺院を部屋の窓から真正面に見る眼福であろう。王様のお風呂で長旅の疲れを落として、少しばかりの昼寝をとった。 リネンのシーツに包まれて気がついた時はもう陽が少し傾きかけていた。イタリアの夏は夕刻が長い。 黄昏になると人々は連れ立って街を散歩する。気にいった相手と恋や政治を語り合いながら、その緩やかな時間をゆっくりと愉しんでいる。 窓辺に立つと、その語らいがモーツアルトのアリアのように聞こえてくる。 なんていい街だろう、、と私はこの街にいっぺんで惚れ込んだ。
夕食はコンシェルジェのお薦め Villa Giovanni Camilloに行った。ここは16世紀の修道院を改装していて、クーポラのある天井には華やかなフレスコ画も残り、古典的な内装だが、カンツオーネ歌手がテーブルを廻って客に歌を捧げるような寛いだ店だ。この店はミシュランでは★無しだが、信頼に足るガンベロ・ロッソでは、その内装と共に伝統の味に評価の★が付いていた。私達がとった献立は先ず、タコのカルパッチョと、生ウニ(これはプーリア地方の名物)それから伊勢エビのリングイネに4つのチーズのリゾット、主菜には鳩のグリルと、生ハムの盛合わせ。ドルチェにマチェドニアとカシスのソルベ、エスプレッソで締めくくった。お客に地元の旬の美味しさを届けたいシェフの良心が感じられる皿ばかりだ。 勘定を見て驚いた。2人でお腹いっぱい食べて、ワイン抜きで3500円位だったのだから。
私はイタリアを訪れて30年になるが、時々こういう物価のブラックホールに出くわすことがある。(君は知っているだろうかアルマーニでさえも二重相場性の価格があることを)ここなら住んでもいいなあ、、と感じさせる街は案外少ないものだが、この夜、私の手帳にレッチェの名が加わった。プーリア産のDOCGワインにも酔って、ホテルに戻った。
ベッドのリネンが新しく取り替えられていた。
カーテンを開けると、目の前にライトアップされた世界遺産のファサードが劇的な輝きを放っていた。
ボラーレ航空
ブリンディシ ミラノ・リナーテ .29 July
プーリアからミラノに向かうのに一番大きい空港はバーリだが、レッチェに近い方のブリンディシから飛ぶことにした。Webで検索して、この路線の最安運賃を調べるとこの見知らぬ航空会社がアリタリアの半額である。バーリの旅行代理店に問い合わせると、地中海沿岸のチャーター運行を主とする航空会社だが、時々ディレイするらしい。 でも1時間半飛んでEUR@90である。機体は新しいし、アテンダントは官能的な美人揃い、おまけにキャンディーを4つもくれた。 ただし、、、飛行機がブリンディシを飛び立ったのは定刻の4時間後だった。
レオナルドの館
ミラノ・リナーテ空港に5時半着、すぐにタクシーで、日本人が女将というプチ・ホテルに向かった。
Antica Locanda Leonard は「最後の晩餐」が描かれたサンタ・マリア・デル・グラッエ修道院から歩いて2分。古くからあるアパルトマンの中で営業している。中庭もあり、木々を窓から眺めながら寛げるのはミラノでは贅沢であろう。女将に頼んでおけば「最後の晩餐」の予約もしてくれる便利な宿だ。
アルバからの届け物
しかし、この宿に決めていたのは、別の理由だ。
私はピエモンテ州のワイン・BAROLOが好きで、中でも名醸の誉れ高く、生産量が少ないAldo Conternoのカンティーナから、息子が生まれた1998年(20世紀の最後のヴィンテージ)のワインを入手したかった。ミラノでも特別の顧客にしか卸してくれないので、原産地のアルバのエノテカに連絡を取って、この宿まで届けておいて貰ったのだ。部屋に入ると、頑丈な木箱に入って稀代のワインが12本、南イタリアから来た注文主を待っていた。
息子が20歳を迎える時に最初の1本を2人で飲み交わすつもりだ。アルバからの木箱代+宅急便代はわずか2000円しか掛からなかった。
ミラノ・マルペンサ 成田 ..30--31July
夏のSALDI真盛りである。普段おつに澄まして庶民など寄せ付けない高級店が、夏と冬のこの3週間だけは、絹のガーターを脱ぎ捨て、木綿の靴下を履いた少女に変身する。 この時、この町で服を買わないのはダライラマだけだ、、と、私はうそぶき、馴染みのアウトレット店を巡回して、高嶺の花だったPAL ZILERIやロメオ・ジリを手に入れた。
これがミラノを発つ朝でなければ、わたしは男イメルダと仮していただろう。 離陸3時間前になって、流石にSALDIへの後ろ髪も断ち切りホテルに戻った。イコンの詰ったトランクにワインの木箱、それにガーメントケースを積んで、マルペンサ・エクスプレス駅に向かおうとすると、運転手がこれで今日はもう上がりだから空港まで全部でEUR25(約3000円)でどうかと云う。渡りに舟! 老運転手は空港までを、シューマッハも驚く程のスピード・わずか30分で疾走した。今回の旅、始まりは湖畔を吹いてくる緩やか(アンダンテ)な前奏だったが、最後はハイウェイーを駆け抜ける、とびきりのアレグロで終わった。